自分で捕ったシカの肉は自分の家で食べる、という自分で決めたルールを貫くことはなかなか大変である。
うちは家族が少ないし、鹿肉料理は下拵えの手間もかかるので、なかなか消費できない。誰かにあげられたら楽になるのに…と思うこともあるのだが、それだけはしたくないと強く思っている自分がいる。
そもそも私は、自分で作った物を持て余して人に押し付ける人間が嫌いである。
うちの母がそうなのだが、家庭菜園で作った野菜や果実、趣味の陶芸で作った食器などを、必要ないというこちらの要望を無視して勝手に送り付けてくる。
自分のところで処分できないなら最初から作るな!と強く思っている。
さらに私は、食べきれないような数の魚を釣って、周りに配る釣り人が嫌いである。
北海道では、10cm程度の小さなヤマメを一度に100匹単位で釣り上げて、知りあいに配るという釣り人が普通にいる。資源の枯渇も考えて、せめて自分で食べきれる数でやめとけよ!という嫌悪感をいつも覚えている。
獲物を捕る楽しみを味わっておいて、肉の消費は他人に任せるという考え方が嫌いになったのは、上記のような理由からである。
さらに私は、鹿肉のように扱いが難しい食材を人にあげて、美味しくないと言われるのが嫌なのだ。
鹿肉は加熱の仕方ひとつで固くなったり、臭みが出たりする難しい食材だ。
野外で解体した鹿肉には衛生的な問題もある。
以前、自分の料理の腕を棚に上げて、私が譲った鹿肉が不味いと言われたこともあった。
結局のところ、鹿肉料理の味は加熱の仕方で大きく変わってしまう。
「丁寧に血抜きした鹿肉は臭みがなくて美味しい」というのは大いなる誤解だと私は考えている。
鹿肉は、家畜の肉のように、比較的無造作に料理しても安定した美味しさを発揮できる食材ではない。その特性を理解した上で、自分で試行錯誤が出来る人間がどうしても欲しいというのでなければ、鹿肉を譲りたいとは思わない。
ついでに言えば、私は他人との貸し借り勘定が苦手で、人から物を貰うのがとても負担である。人に何かをあげるのはまだましだが、あげた相手の負担にならないか、ものすごく悩む。
正直に言えば、自分が苦労して手に入れたものは簡単に人にあげてしまうのがもったいないという気持ちもある。
こういう複雑な気持ちを抱えて消耗するくらいなら、自分で捕った獲物は自分で消費する、食べきれないような数の獲物は捕らないと決めた方が良いと思った。
これが私が自分で決めた狩猟のルールである。
数が捕れない人間の負け惜しみと思われても構わない。
このルールだけはそう簡単に曲げたくない。